日々の思考の伝達

日々思うことをまず書いてみる。言葉にしてみる。

他人にどう思われるのかが怖い

題目に共感する人は少なくないと思う。

去年までの自分もそうだった。

  • 誰かと話している時、自分がその人にどう見られているのか考えてしまう。

  • 街を歩いている時、笑い声が聞こえてきたら、自分のことを言っているのかと考えてしまう。

  • 夜寝る前に、あのときあー言ったのは良くなかったかな。。。相手の気を悪くしてしまったかも。。。

そんなことを考えて、「コミュニケーションは苦手です。」などとのたまっていた。


だが、最近この考え方が変わった。

あくまでも、「俺はコミュ障だから仕方がない」という予防線を張っているだけだと思うが、この考え方は非常に良くないと思うようになった。


なぜか?


それは、「コミュ障」ではなく、「自意識過剰」の表れだからだ。


上の3つの例について考えてみよう。


  • 誰かと話している時、自分がその人にどう見られているのか考えてしまう。

  • 街を歩いている時、笑い声が聞こえてきたら、自分のことを言っているのかと考えてしまう。

  • 夜寝る前に、あのときあー言ったのは良くなかったかな。。。相手の気を悪くしてしまったかも。。。


これらの実態はこうだ。


  • 「私が」、その人にどう思われているのか気にしている。

  • 「私が」、笑っている人達にどう思われているのか気にしている。

  • 「私が」、その人に言ったセリフを気にしている。


主語がどれも「私」なのだ。決して話し相手ではない。


それは言葉のアヤだ! 実際は

「その人が」私をどう思っているのか考えている。

だ!だから、違う!


と、反論もできるだろう。


だがこれも結局、


私が「「その人が」私をどう思っているのか配慮している。」と気にしている。


にすぎない。

そう、他人に配慮する自分という体で自分を守ってきた言葉は、実は

ただ、自意識過剰なだけだった。


そう考えるとこの考えはずいぶんと傲慢だな。


話し相手を勝手に使い、過剰に自意識を見ているだけなのだ。肝心の話し相手が存在しない。

悩んでいる時、その話し相手のことを考えているだろうか??

結局考えているのは、話し相手に「私は」どう映っているか?なのだ。


もちろん、清潔感が圧倒的にない人は、もう少し自分を見た方がいいだろう。

だが、そうでない人は、もう少し自分をぞんざいに扱っても良いのではないだろうか?


人は、あなたが思っているほど、あなたのことを思っていない。

では試しに、三日前に話した相手と会話内容を思い出せるだろうか?

、、、、、、、そんなものだろう??